ぷかぷかぷー。

消えていく大好きな匂い

勘違いはエンタメ。

積極的に勘違いされていきたいと思っている。なぜなら勘違いはエンタメだからです。勝手に誤解されたいし、勝手にイメージ持たれたいし、勝手にイメージと違うってびっくりされたりがっかりされたい。良くも悪くもね。悪い意味でもこっちに非はないですから。悪いことはしてない、罪悪感とかない。真髄は全部自分に埋め込まれている。大体自分を肯定するのが自分じゃないと呼吸苦しくなるし。相手に自分肯定してもらうとか考えない方いいまじで。

てか、逆に勘違いのない、誤解のない、自分オールさらけ出して人とのコミュニティ飛び込めますか?怖いですよ正直めちゃくちゃ。エンタメ性ゼロの自分ですよ?手ぶらで戦う狂人精神誰が持っているんですか無理です。人と共有したい、共感されたい、日常を伝えたい、なんでですか?共有共感伝達の先にしか安心信頼は生まれませんか?そんなことないと思います。要因として必要だしメリットはある。でも全部知らせること見せること誤解のない完璧な印象の植え付けは裸の自分を、天性の文化として見せつけることです、何も飾らない自分。まあまず率直に言って自分が見てる側ならつまらないんですよね単純に。これに個人差はあると思うが(特に私は基本的に他人に興味がないので)。でも大体みんな自分ありきの日常で、その自分って土台があっての他人だよね、他人のプライバシー100パーセント、楽しい?というか、プライバシー丸出しのつもりでも、それ見世物としてのプライバシーだから結局相手が他人にどう見せたいか、のイメージ戦略にあっさりのらなきゃならないわけで。どうせ丸裸のつもりでも着てますからね、がっつり服。そんなのなおさらつまらん時間の無駄。

そういうわけである程度の距離感と最低限の誤解って、人との交流の娯楽性を維持するために絶対いるんだよ。その方がコミュニケーション楽しいじゃん。

これは自分だけかもという意味わからんこというけど、自分でさえ自分に誤解して生きている、というのも強く思っている。

0か100でしか会話ができないおしゃべりモンスターなので、周りの人達85%の人には私個人の情報量が少なくて、勝手なイメージ持たれる、それは思うツボです。残りの15%は自分の日常というより思考をまんま見せている、という感覚で仲良く接している、けど、勘違いゼロな訳はない、勝手に誤解はされるし期待もされるイメージももたれる。しょうがないよね。私自身が自分に誤解しているから。

自分の趣味思考を抜きにして、今の交流関係、生活の環境除外して、本当に自分って存在だけを見せるとして、見世物としてどんなエンターテイメントになるのか、って想像する。でも、何も残らない。一瞬も面白くない。悲しいけど人間ってやっぱり誰も何も持ってないんだよね。最近ずっとそんなことばかり考えて、人生は自分の飾り付けだって結論にやっと辿り着いた、割と遅い。というか自然とできるはずの行為なんだけど。気づけずに生きてきたのを悔いりたいところだがその時間ももったいないな。そう気づいてからは自分にエンタメ性を身につけることに喜びを感じ始めた。たくさん誤解されて味わい深い人間になりたい、でも本質は自分にしかわからない、みたいな秘密性、わくわくする。まあ自分のことばっかこんなに散々考えてるのに、自分のことすらも全くわかってあげられてないんだよね、人類、かわいいな。