ぷかぷかぷー。

消えていく大好きな匂い

過程と静love

大人になると結果ばかり見てしまう、結果を注視している自分に気づいてもっと嫌になる そんなことばかりだよぉ
おいらは考えるしみんな考えている、その過程がありきのあくまでおまけの!付随の!結果なんだが、生きていると事実過程は無碍にされること 多いよね わかる やだ!
でも何かの作品に触れるたび、その過程の感情がちゃんと見えてくるからいいんだ 何かを享受することは…。
物語でその主人公の心情の変化見ることもそうだし、見て読んで生まれるおいらの感情もそうだしね。見聞きしている時は一点で動かないのに、静かなのに、大きくちゃんとうごく心を実感できるよねえそうだねえ大事だねえ 感情love つまりは過程がlove、「静」がlove

桝野さんの、「好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君」、の短歌、付き合えなくていいのにの71話 こういうのが好物なんだが ニッコリ
とにかく何かを反芻してくれ!作品
動かない情景の中、動かない展開の中、静かに動きまくる感情が露呈される作品が好き うぉぉん
(この場合の動きまくる感情とは、喜怒哀楽がはっきりこう!とか変化が多い!でなく、なんかモヤモヤだしヘロヘロだしぐちゃぐちゃかもな何かしらの何かがある感情をいいたい わーんわーーーって感じの つたわってよね)

ルックバックを読んだ
作品の中で「過程」と「静」が物語のパワーを増していて よかった
過程と静が、物語にリアリティを増すやん?そう
だからいいよね

タヒのルックバックの感想の「立ち直ることが素晴らしいと言いたいのではなく、立ち直ることに惹かれる自分自身、それに気づくことができる作品」
のいいかた〜そうよね
悲しい出来事を克服することがいいわけでも、克服できないからダメなわけでもない
そしてこの本は立ち直る勇気を与えよう!というメッセージでもない。立ち直るかどうかはどちらでもよくて、その過程にあるめぐる思い、絶望、たらればの感情、、打ちのめされる人間のリアルはリアルだからあって然るべしで、そこを描いてこそ作品、ファンタジーだもんね。ん?あ!?ファンタジーだからこそリアルをリアルのまま突き出せるのが作品じゃん
作品が持ちうる特権を存分に発揮してますねかっこいい!!!、!

むり

いいこともわるいこともある人生で、悪いことが起きて絶望したとき、悪いことが起きないように道を選び直せたとしてもその分のいいこともなくなるかもだし、いやそしたらその分の違う悪いことはどうせ起きるかも、、だし、え?なんなんだ?人生
伏線も終わりもない、物語とは違う現実のおいらたちの人生はどうなろうとどうにかはなってしまうしならないしわけわからん人生なんだ、、。なのに、続きやがる毎日 こわい
ルックバックは物語なのに(だから?)出来事や行動何かを否定するわけでもやり直すでもなく、リアルのまま残し、リアルのまま藤野が動いていたことが良かった。明確なメッセージがこれ!とかではなく、そのリアルであることこそに意味やメッセージがあったと思う。
リアルそのものがいちばんのパワーを持ち、それがまあ希望みたいな何かで、おいらたちにわずかな優しさ的な何かをくれた気がしまする(漠然としているが、本当にこういう感覚。圧倒的に希望!とか優しい!とかは言えない けどそれに似たものがある というおいらの思い)
あと藤野や京本が作品というものに惹かれて生きていたことも、今回作品に惹かれている我々にリンクもしているし 我々はみんなフィンクションに生かされた人間なんだそうだ
フィクションもノンフィクションも全部わからねーやなんかもう全部ファンタジーだね ファンタジーに生きるオイラたち!すごい 
わくわくしてきた
ははは 
こういうどっちなのかわからないどっちでもないかも、てか、え?なんの話だっけ?みたいな曖昧な思考を巡らす時間 必要だったんだ
何を言っているかわからなくてokですそういうもんだったわゲラゲラゲラゲラゲラゲラ

ありがとう思考ありがとうルックバック

😎

健康で不健康になる欲張りな私と日々

不健康だね 欲張りだね

不自由ない生活のありがたいいことしかない状況で満足できない己の欲深さ強欲さにわらけてくるまいにちなんだな

彼氏友達会いたい人に会い、食いたいもの飲みたいものを手にし、みたい作品ライブ音楽好きなとき好きなように摂取して、まあこんなもんかokな職場もあり、付随の金も得られている。

 

え?何が他に欲しい?と思うやん

んー
えーと、社会や自分に対しての誠実さ、、、、。

ですね 

何を言うとるかは私だけが分かればいいし

私もわからん 感覚問題なので

 

話さないことの誠実さについて随分前に友達と話してから、話すことはもちろん自分のために記すことも、記さなければなかったことにできるな、と錯覚しちゃってたんだよね、

思うこと書くことも悪いことでないけど自分が目を向けすぎず時間や金のコスパ重視で自分の平穏を保とうとしていた数ヶ月
でもたまにこの文を書く私がうおお〜いと現れてしまうので無理

 これは消えません なので書かせろ

 

もっと誠実に生きたいですナミダ
なんというかこれは、自分にまっすぐに生きたいという言葉で表される気がする

世の中的にわかりやすくまとめるならばね

 まとめるな!おいらは天邪鬼

悪い人も悪いこともない職場、だからこそもっと真っ直ぐに一生懸命に働いてもいいんじゃ?の私とでも100で振り切れない私がずっといて、

不誠実なまま働いているなと悲しくなる
別に迷惑かけるようなことをしたりとかしてないし、周りから見れば働き方として合格ラインにはいるんだろけど、それだからこその悲しみなんやわ
周りに許されるレベルやろこれはと思ってしまうことも嫌だし何というか、許される許す、

そんなモチベだけで働くのはつまらない ときづき

合格ラインではたらけてるなら、それはそのまま、やりたいことがあるなら自分でうまくやって、

仕事と休日!超充実!サイコーウーマン!

になればいいってな わかるよ
ここからは言い訳だがそれはキツい部分もある

本当はそんなことないかもだがスルーして…


100じゃなくともまあまあ働いて帰ると心身ともに疲れている事実、日々の生活でのやることも重なると、くって彼氏と話して寝るを続け切ってしまう
それでいい、それでいいのはわかってるって!

私は!!強欲だって!それは置いてくれ一旦!

 

やるべきことをなあなあにこなし、人としてやりたいことはやる、できなかったやりたいことがどんどん蓄積されて 私ってなにをしたかったんだっけ?となる 生きること、それができればオッケーなのは知ってる 

でも心が不健康なまま生活を続けるには私が強欲すぎるので、満足できない悲しくなる辛くなる

ごめん欲張りで世界
でも欲がでるもんはしゃーない、出なくなったら終わりなので、なので!少しでもその欲を満たせる環境に身を置き何にも言い訳せずやりたいことをやらざるを得ない状況にして自分をこれ以上ピーピー言わせたくない、やれ!となりうれしいやる!となりたまに苦しい!となってもいいなぜなら苦しみてえから

 

飯を食う綺麗なものをみる、のんびりする
が私の休養にはならないことってのもでかい
体的には休養、そらそうなんだろうけど


常に忙しない私の心は忙しなくいることが通常運転なのであり、なんなら忙しなガソリンを注ぐことでもっと活発つなり心と健康は保てるんだな、これが、、、、、まあこれがバイトしすぎで倒れたりする、体の状態かがわからない、スケジュール組めない 昔から周りにによく怒られる 

こころだけ無双わたしなんだが。、、、

私のやりたいことが休ませることボーッとすることではなく、ある程度心体に余裕があった上で、やるぞまなぶぞ!今すぐでわかる目標やりがいはないかもだけど、やりたいことはやるんだ!と少し気合を入れて学びを得たいことがやりたいことに多いので、そのちょっとの、少しの一歩を踏み出すための余力を残せる状況にしたらいいのかな
と最近は考えている

目的なく生きると心は死にます、
常においらをワクワクさせろよオイラが!
周りはええ でも迷惑はかけない
誤解かけたらごめん、でも、まあいいだろう普通に

書かないとだめだ、てか書くことでスッキリすることしかない
てか手が止まらねえ なにこれ
私って何なんいつまで描き続ける性分
死に際まで描いてら

勘違いはエンタメの私も、
ワクワクしていたいおもろくありたい私も、
記録したい感性ラバーズの私も、
全部全部なくなってなくて、なくなれなくて、変わってるようで変わってない
好きな私がちゃんとおります涙
めんどくせえが、この性質はそういや全部自分が一番好きだったんだ
忙しい日々に、効率性重視して行き過ぎた大人の俺だ
なにが表出するかなだけで、自分って全部蓄積されてたゲラ オモレー人間

全部引きつけれて心、もっと健康保ちたぃ!
心もっと身勝手であれ!ごめんけど!それがよさそう!

サラブレッド

もうなんなんだよ。

ずっと怖くて不安で不安がくるのが怖い。

人生のことばかり考えてしまう。

日常の方が先にあるのに。

漠然とした人生にばかり目を向けて

怖くなってしまう

今を大事にできなくなってしまう

何故なら怖いので。


もうずっとこんな感じだった気もするけど、

違った気がしていてわからない…

過去の自分は一番他人なのに比べていて

キリがない。

生きる理由も人生に意味も何にもないのに、、

わかっているのに、

わかっているからこの人生はなんなんだ?

となってしまう


なんでもないんだよただ食べて寝て人に会ってを繰り返すだけでなーんにも意味はない。

 

狂った自分に目を向けないと正常になれない…

誤魔化し続けるとバグが起きてしまう。

大事にしたいものたくさんあるのに

今は自分しか見えない泣きたい

そんなの許したくない心が私にはある。

みんなが許しても許せないのは自分…

大事にしたいひと、たくさんいるのになあ。

おいしいものたべて寝ても寝なくてもいいから

何度も会いたい人に会って

それで満点の日々なんだろうな。

 

私は欲張りです強欲です、

だから、怖くなってしまうのかもね。

わがままなのかなあ
そうなのかもね


この鬱を晴らすにはこの鬱に向き合って、

吐き出して訳もわからず書いて、

解釈できなくても、

世に出る自分は切り分けないと、

苦しむのは自分なので…

今は今だしな わかってんだよ 
え、わかってるかな?
わかってないのかも。

 

だからわからないなら

もうとにかくはやくどうでも良くなってください
人生に向き合わないで。

 

なんなんだよ!まじで人生って!!!!!!!!!
意味なんてない理由なんてない

でも悲しませたくない、

あ、待って悲しむかな?

悲しんでね


悲しませたくない


大事な人を悲しませないために死なない
しか死なない理由はないっぽい


頼ってくれ信じてくれ、外は外切り替えて

いやもう頼らなくていい信じなくていい

切り替えなんてしないでよ ばかー!


正直ぜーんぶ関係ないから

どうでもいいから まじ

適当にやってくれ人生
適当にやってくれ!!人生


大事なことなので2回言いました 私


みんな正解で不正解だから自己満なんだから
何がしたい??何もしたくない 正解

だめ?うるせええええよ世界 耳ふさぎます
好きな人だけ見ていたいのかも
たぶんずっとその人に笑っていてほしいのかも
好きなので。

曖昧だいすき

ふと嗅いだ風が知ってる香りだったり、読んだ言葉で思い出す海とか空とか鉄塔とか、うたたねで聴こえる生活音とか、全てを懐かしいと思うと同時に、そこに懐かしさはない気もする。全部知らない香り、景色な気がする。

どこの何とわからない景色が私脳内にはあってそれがとても大切なのです。たぶん、本当に幻なんだと思う。全ての記憶の欠片が一瞬の景色に纏められている気がする、全部の思い出の集合体、、?

だから、その懐かしいに対する曖昧さだけは大事にしたい。本当に見たことがあるかないかなんてどうでもよくて、私の脳だけにある、私の脳内マップ。君には絶対に見えないし伝わらない。もはや私自身にも伝わらないこの懐かしさたち。なんか昔からある。

絵に描けないくらいぼんやりしていて、言葉で伝えようとすると見えなくなる、何かの残像みたいな、、、でも絶対に消えてほしくない、何かがいてくれてると思う、え、これ私だけですか?

みんなにあると思ってた

まあそれらを絶対も肯定もなく、曖昧さを愛してほしいのよ

 

あるかもしれないね、と可能性に対してそう言葉をかけてほしい。きみにはきみの、わたしにはわたしの見えないけれど、大事 が沢山あるはず

 

わからないけれどわかるよ、は説明ができない

説明すればするほどそのわかるが表層だけのものに感じる、いうだけ虚しい。あやふやにしたいわかってほしくない

それでもたまに、わからないけどわかるよ、わかるけどわからないよ、の言葉を信じられる時がある、それは感覚の話なので説明不可だが…

わからないけど同じ方向で加速できる人、いる

わかりやすくそれが親しい友達、とかになるのか?

あーあー、くそー、

感情の曖昧さを大事にしたいのに、こういう話をする時結局友達などの肩書きが現れるのが気持ち悪い、わかりやすいから仕方がないのだけれど。

説明ができない感情や関係性ばかりに大事にしたいと思ってしまう、なぜなら大事なので。

大事にしたい!の理由は大事にしたいからしか存在しませんよね

 

最近の鬱は、販売員とお客さん、上司と部下などの肩書き縛りの日々でまるで絶対があるような暮らしが広がっていることに原因があると思う、

肩書きがないとわかりにくい世界になるので致し方ないのは承知の上ですけどね

 

人生、わかんねえーーー!と叫びながらバタバタ走りたいのに、わかりきったふりをする大人に囲まれてしまっているのもわたしには厳しい状態

 

自分経験主義なのでやってみるしかない精神があるのに、それをする時間も余裕も消えていく現状、

時間も可能性もある今が若いとか諭してくる大人たち、どこで何を妥協するかだし、諦めと楽を手にしないとこのしんどさは消えないと知っていますが、今はまだその諦めを、余裕ではなく体たらく!と思う気持ちがあり、つまりまだわたしは若いのだと思います。うるせーよ歳とか関係ねーよ性格だよ!の気持ちもあり、、、、面倒ですね

 

正解を出したいのではなく、わかんねえよねー!だよねー!と言い合いたい。そうやって生きるしかエネルギーは溢れてこないっぽい。

無理っぽい時に頑張れるっぽいので、

私に若いだの才能だの努力だの自由だの、そういう希望は見せないでください絶望です

悪意がないのはわかるから、ありがとうとだけ言います、けれど、、、以下堂々巡り

 

こんなにしんどいのにいつまでもこうでありたいと願っていることも事実です。よって自分を苦しめているのは他でもない自分^_−☆

人生こうでなくっちゃ!ハッピー!

 

モード突入。

 

思い出バスタイム

思い出を、思い出すことができません。
思い出を、思い出せないけれど思い出です。

過ぎ去った生活はいつでもずっと、断片的で、
日によって色も香りも解像度も違っているのに、
そのどれもが思い出として一括りにされる。
思い出一つをとってみるとコマ送りみたいに
フラッシュで切り替わるあの画面になる。脳内で。
もう、全てを思い出すことはできない。
それを、悲しいとも思わない。

思い返して悲しくない出来事が増えるたび
その出来事は思い出に昇進したんだなあ
と感じます。
思い出して苦しくなるまでは全てまだ今の出来事、

感情が動くことは今なんだよ。
歴史の教科書の
あの長ったらしい年表を見るみたいに、
写真を見てもそんなこともあった、
そういえば楽しかった日々、悲しかった日々、
あったなあと事実としてしか思えない時、
それがすなわち思い出だと思います。
そんな思い出たちに、

救われることも傷つくことも

今となってはあまりない、

ないけれど、思い出たちは消えて欲しくない。

時々似たような夕日をみて知ってる、と思ったり、

夕飯の香りで勝手に安心したり、
今につながる感性は、
思い出によってもたらされているし、
生きる化石として私にあり続けるからです。

思い出が収納されている棚は、
自分では開けられない引き出しだけれど、
反射で、脊髄で、無意識に開いて、
今の生活の一瞬のスパイスになっている、
なくても生きられるけど、
ないとわたしが薄れちゃうんじゃないかなあ、
あるようでないそんな思い出と私の曖昧な関係、
その距離感が愛おしいし、もどかしい。

思い出を具現化したら絶対入浴剤。
たまに全部の思い出を一つの入浴剤にして、
湯船に落として、溶けていくその様を
グチャグチャになるその様を
じっと見つめたいと思う。
色は絶対にピンクとか華やかなもんじゃなくて

全部の色が混ざって

結局泥やんみたいなそんな色、絶対。

 

私は思い出が大好きです。
会えない思い出に会いたくなる時、
私は濁った湯船に口までうずめて夢想する。
思い出バスタイム

エモって!

エモが多用されることについては

定期的にふと考えてしまいますが

たぶんみなそうよね?

 

平成が終わるときの平成最後の丸々ブーム、

あれうっせわ!(おっとここで令和が)と思うほど

こじつけのエモで吐き気がしましたが、

振り返ると致し方ないきがしてきた。

なぜかというと、元号の終わり、時代の終わりを振り返られる媒体があるからなのですね…。


すみません噛み砕きます。

 

あの時代はこうだった、あの夏はこうだった

そう振り返るのが脳内の曖昧な思い出たち、

それしかないことこそエモだと思うんですよ、

おじいちゃんおばあちゃんの語りとか…

戦後大正のわかりやすいデータ媒体がない時代とか

そんな気がしちゃうね。(そんなとはエモの原点エモの極み的な感覚です私見です)
しかし昭和の終わり、

平成の元号発表の映像あたりは残ってる、

データとして残される思い出が増えた時代、

それが平成なのかなと平成生まれがここで勝手に予想のレベルで思いました。
なので、あのテレビで見た昭和の終わりのように

平成も終わっていく、ああ今がいつか語られていく、あの頃はこうだったああだったを語れるエモーショナルを持ち得たい…時代の終わりイコールエモなんだ、、実体験の前に想像上のエモを植え付けられた若者、、若者たちはエモくなっていたいの焦燥感に苛まれる!、それら全ては、エモい!とただひたすらいうことでしかかき消せない気がします。
曖昧な概念のまま話されていたエモが、

映像、文章として如実に残されている状態、それは意図せずエモの前借りを促してしまいますね…
どっちがいい悪いの話ではなくどっちもいいし、

てかどうでもいいですの気持ち。


情報技術の進化で過去を振り返ることができる、

そして起こる前から、過去として記されることがわかりまくりの今、未来、に囲まれた現代人。

エモを感じるのは後でも先でもなく今しかない、0.000001秒のエモ!を全身で感じようとしている人間、可哀想でかわいいねの話。

エモのバロメーター、繊細のようで大雑把のようでやっぱり繊細な気もする、

バグりまくりの最近のエモブームそれを取り囲む人間ども、この流れの全てから止まる事のない人間の進化を感じられて結論エモエモいう私も友達も最高に好き。

共感されたいのは存在証明だから。

共感はされたくありません無理にするつもりもありません。

でも、共感が人生に必要不可欠なのは知っています。

 

去年のブログ読んで書いた記憶がなくて驚いた

記憶がないというか結局記録しないと

良いことも悪いことも何もかも忘れる脳なんだな人間 

改めて実感

でも共感はした。新鮮に読めたのでオールオッケー

共感されたくて書いたわけじゃないけど、

今の私が過去の私に今共感できたことは過去の私の救いになっています。てか今なりました。

共感がデフォな時代になってしまいましたが、

共感を求めるのは他人じゃなくてもいいと思う

共感されたいわけじゃないけど、何かを吐き出してもこのブログは誰にも読んでもらえないなのだとしたらそれは当然虚しい悲しい、

世の中の1人くらいの目に入って共感まではいかなくても何か思うことがあるといいな 

とは正直思います

それが存在証明になるから。わかりやすく。

誰も全くの1人になるために生まれてはないので流石に私でも寂しいな感情はあります。

 

それでもなお私が共感はされたくないというのは

言い訳でも強がりでもなくて本心です。

多分そう思えるのってこう日記とかブログをダラダラ続けてる人生だから過去の自分に共感する経験があったからなのよね。

そして今自分が描いてる文も未来の私が共感する、百じゃなくても少しはする、読んでくれる、

の確証があるからですね。

 

そういう経験がなかったら、もしくはそれが自分自身じゃ物足りなかったりするひとは、他人に共感して欲しいって思うのは自然な流れなんだよな。

なんてったって他人はタイムリーに共感してくれちゃう率が高い。

今しんどかったらそりゃあ今共感してくれる他人に世間に縋るよな!!

どっちがいい悪いじゃなくどっちも自然な流れだし、結論人は存在を認めてほしい人間なのでした

を、今ふと考えて気付いて

これもまたタイムリーに共感して欲しいとは思わないけど、書かないといけないと思う。

記録した思考をいつかの私が読んでくれることに安心しているから毎日生きていると思います。