ぷかぷかぷー。

消えていく大好きな匂い

特大ブーメランどかん。

私はみんなの解釈で、概念でしかない。解釈の余地をもたらすのが私自身の言動、振る舞い、つまりキャラ作りなんですわよね。私っていないんですよ。どう解釈させるかゲーム人生それで終わる。事実それを楽しめれば理想像にも近づけますしね。もちろん私がどう思うかどう感じるかが最優先なんですでもそれを求め続けた結果がこれなんです。死んだ時に、この子は楽しく生きていた(楽しそうに生きていた)、この子は辛く生きていた(辛そうに見えていた)真相は知らん、しかし死んでまでそのようなこのようなことを思われるのであればいい結果を目指したいわよね、可哀想な人で終わりたくない。自分自身では、可哀想な人と思わない自信があるんですこの先どんなに辛いことが起きようとも、それもありきの自分を好きでいられますすでに22年もこの私に付き合っているのは私なので。しかしその領域にいない人は些細なことで楽しい悲しいを感じ取ろうとしてくれます、(人ってなんだかんだ他人には優しいので)、私は私のことが好きなので、好きな私を皆さんの目にも素敵に写りたいです、だから楽しそうでいたいし好きな感情にはまっすぐです素敵に解釈してください。

言霊ってほんとに本当にあるんですよ、そして嘘はほんとになります 1番騙されるのは自分です。事実がどれかわからない。だから、楽しみたい幸せになりたいではなく、たのしい!幸せ!と思います。それだけで実感するんですほんとになるんです

言霊、、怖いからこれがネガティブな方向にも行きますよね、、そして今私が悩まされているのが特大ブーメラン。何かとつけて、おいおまそれ己にも言えることだろうが!と。

みんなに楽しい人と思われたい、せっかく会うなら有意義な時間にしたい、そう思えば思うほど空回りします、でも空回りが本性なので今更どうもできないけど。でも、無茶して話して盛り上げようとしているのも事実で、楽しそうに振る舞うのもやはりストレスなんですよ、それをどの程度どの範囲の人に見せるか、それがわからないんです。自分以外の人ものは全て対峙してる尊いものなので、。、そして解釈の主なので。いい塩梅がわからなくて、露呈しすぎている気もするし、しかしこんなに話しているのに自分がどんどん空っぽに、何も伝えられないままのふわふわとした虚像としてほっつき歩いているきもして、とても怖いし苦しいんです、でも私が好きだから、私以上にこの苦しみを理解し対処できる人もいてたまるか!と思ってがんじがらめで、もっともっと素直になって欲しいと思うんですよね

無かったことにしてもいいけど。

ブログ日記書かなくても生きていけるな〜

てかかきたい欲なくね最近何もしてなくね考えてなくね息してなくね、それでも生きられるけどねわら

みたいな日々だが、考えてることがないから書かないんではなく、書かないから無かったことにされてるんだよねグルグル考えたことたちが。

まあなんか制限された生活の中で、楽しいこと幸せなムードが欠落した世の中で、人が共存していく難しさがまざまざと現れ始めてるわけだけど

そんなの日常があったときから存在してたし気づいてなかったん?その細かいディテールに気づいちゃえるくらい全人類が一つのことに着目していて逆に一丸となっているのかもね超絶ある意味

知らなくていいこと多すぎるどうせ死ぬのに数十年後って思うけど、些細な諍いにわいわいできちゃえる人間は結局優しい気がしてきたなそんなことしなくても人は死ぬし人は生きるけどな、勝手に自分のためだけに生きるって選択をとらない人がたくさんいるだけで地球周ってんな

いやてか別にだからこそこのブログにその今の世界を情勢を反映したことは書きたくないと思うよねというか描こうとしなくてもどうせ漂うんだから日々を生きて日々を記録して遺跡になる

生きたことなくなっちゃうの悲しいけど残ってても鬱陶しいだろうから自分のためだけに生きるのやめるつもりはない。自分のこと考えることしかできないしそれが人生において課題?仕事?だよね、だから、もはや人といる時の方がプライベートと呼べるのかなとか思う

公私なんか混同するし優しい人は性格悪いし笑ってない人は楽しんでるよ人生

なに言いたいか知らんけどやっぱりかき始めると指先は止まらなくて整理する前に思考しててそれが止まらなくてまとめられなくて苦しくて、だからまとめる必要ないし説明しなくてもいいことばかりあるんだよね これくらいとっ散らかってないと書いた意味ないし生きてる感じしてオッケー

寛容的に生きられれば身勝手に生きてもいいんでは ただ知らないことわからないことへの憧れと、説明しないことの中でやんわり伝わるぬるいニュアンスで思い出感性共有出来るその曖昧さにときめける人はもっともっと信じられるよね ずっと勝手に想像したいし想像されたいし誤解されたい嘘言われてもいいほんとはここにしかないから ネオsns世代わかりすぎてる哀れさを気づかないのは時代だから同情したら失礼なのかな

やっぱり毎日指先で打ち始めれば考えてることがわかるしそれに安心できる考えているから生きてるんだな絶望だし希望すぎるけど暮らしなので平坦です 記録する

 

勘違いはエンタメ。

積極的に勘違いされていきたいと思っている。なぜなら勘違いはエンタメだからです。勝手に誤解されたいし、勝手にイメージ持たれたいし、勝手にイメージと違うってびっくりされたりがっかりされたい。良くも悪くもね。悪い意味でもこっちに非はないですから。悪いことはしてない、罪悪感とかない。真髄は全部自分に埋め込まれている。大体自分を肯定するのが自分じゃないと呼吸苦しくなるし。相手に自分肯定してもらうとか考えない方いいまじで。

てか、逆に勘違いのない、誤解のない、自分オールさらけ出して人とのコミュニティ飛び込めますか?怖いですよ正直めちゃくちゃ。エンタメ性ゼロの自分ですよ?手ぶらで戦う狂人精神誰が持っているんですか無理です。人と共有したい、共感されたい、日常を伝えたい、なんでですか?共有共感伝達の先にしか安心信頼は生まれませんか?そんなことないと思います。要因として必要だしメリットはある。でも全部知らせること見せること誤解のない完璧な印象の植え付けは裸の自分を、天性の文化として見せつけることです、何も飾らない自分。まあまず率直に言って自分が見てる側ならつまらないんですよね単純に。これに個人差はあると思うが(特に私は基本的に他人に興味がないので)。でも大体みんな自分ありきの日常で、その自分って土台があっての他人だよね、他人のプライバシー100パーセント、楽しい?というか、プライバシー丸出しのつもりでも、それ見世物としてのプライバシーだから結局相手が他人にどう見せたいか、のイメージ戦略にあっさりのらなきゃならないわけで。どうせ丸裸のつもりでも着てますからね、がっつり服。そんなのなおさらつまらん時間の無駄。

そういうわけである程度の距離感と最低限の誤解って、人との交流の娯楽性を維持するために絶対いるんだよ。その方がコミュニケーション楽しいじゃん。

これは自分だけかもという意味わからんこというけど、自分でさえ自分に誤解して生きている、というのも強く思っている。

0か100でしか会話ができないおしゃべりモンスターなので、周りの人達85%の人には私個人の情報量が少なくて、勝手なイメージ持たれる、それは思うツボです。残りの15%は自分の日常というより思考をまんま見せている、という感覚で仲良く接している、けど、勘違いゼロな訳はない、勝手に誤解はされるし期待もされるイメージももたれる。しょうがないよね。私自身が自分に誤解しているから。

自分の趣味思考を抜きにして、今の交流関係、生活の環境除外して、本当に自分って存在だけを見せるとして、見世物としてどんなエンターテイメントになるのか、って想像する。でも、何も残らない。一瞬も面白くない。悲しいけど人間ってやっぱり誰も何も持ってないんだよね。最近ずっとそんなことばかり考えて、人生は自分の飾り付けだって結論にやっと辿り着いた、割と遅い。というか自然とできるはずの行為なんだけど。気づけずに生きてきたのを悔いりたいところだがその時間ももったいないな。そう気づいてからは自分にエンタメ性を身につけることに喜びを感じ始めた。たくさん誤解されて味わい深い人間になりたい、でも本質は自分にしかわからない、みたいな秘密性、わくわくする。まあ自分のことばっかこんなに散々考えてるのに、自分のことすらも全くわかってあげられてないんだよね、人類、かわいいな。

もやもやいらいらをそのままだすほうほう。

宇宙が今破滅して消えても私は死なないです人生なので。すごくもやもやしてるので吐き出そうと思うよ絶対日本語じゃないのは承知で誰も読まないしね。誰かの幸せが私の幸せと思うほど柔らかくないしその逆はただのお節介にしか受け止められません性格が悪いからいや普段自分の心は広い方だと思うのよ自分で言う人があるか。個性として受けとめられる許容範囲がえぐい広いし私がそうだからお前もそうであれと思うんですよね、矛盾だ。まあだから結果お前心めちゃせまやんとは常日頃おもうている子供は子供なりに考えている。いや正直大人なんかいないしな人間に、と思うので人間を舐めているし舐め腐って生きている自分も舐めている、だから軽率に馬鹿にしてくれて結構ですと思うのよね。
今日1日で私は社会に出てスーツ着て上司に従って機嫌とって飲み会でも取り分けて酒ついでニコニコするそういう働く女にはなれませんと気づきました、働いたことないので働く女のイメージに偏りがあるのはスルーして。でも実際そういう部分あるでしょ、どっかしらの会社には。とても無理です吐き気しますもはやイメージで今吐きますおえ。
何か嫌なことがあるたび絶対好きなことにふらふらと軽んじて足突っ込めばよかったのに、となる。趣味を仕事に。言葉は軽いが子供なりにこの気持ちはほんとだったのかもしれないと思い始めた、夢、叶えようぜ…的な乗りが恥ずかしいと思ってたし捻くれてるので、自分の理想を自分で冗談としたかったんだよね。極めるならそういう環境に置かれたい器用じゃないから。
怒り→涙の人いますか?普段怒りをあまり顔にも口にも出さないけど、突然限界が来て怒りが大爆発すると全て涙で表現されるの…同じ人いませんか、、久しぶりにそれバイトでなって死んだ、マックスに怒ると泣きながら怒鳴り散らすめんどくさい女なので、、(とても遺伝子)
DNAって嘘つかないんだな、親を見てるからこの性質のキツさはわかっとる。
怒りエキスがじわじわ浸透すると血が足りない感じがして、寒くなって考えるより先に言葉が先走ってしまって何かを離そうとすると涙がのそっと来て、でも涙出ると言いたいこと言えなくてもどかしくてそれで余計泣いちゃって、いつもここで止めてどうにか逃げるの。これを超えると泣いて喚いて収集つかなくなるのはわかってるから、、、、コントロールできないじぶんが怖いな。だから普段怒ることもほっっとんどないんだけどな、、小分けに怒ることができればいいけどわからんアドバイスくれえ。
やる気ないのに本気じゃないのに全力出せないのに講義を受けるのもバイトをするのも相手にとって失礼でしかないよなと考え始めると永遠に怠惰が続いて人生を考えてしまう最近でした。だれか〜

超個人的感想メモ。

ここは退屈ほにゃほにゃほにゃをみた。


退屈から抜け出して理想を求め続けた人間達、この物語の中では、いわば成功者のような人々が退屈な場所でもがく彼らとそしてこの2時間を作り出したのは少し皮肉にも思った。だけれど東京で「超楽しい」と叫ぶ朝子のセリフで物語を締めくくったことには現実と映画をリンクさせた製作者の暗示的意味も込められてるのかな。こういう緩急のないストーリーでもゆらりとさりげなく誰かの背中は押せるんだな〜。製作者の真意はわからんけど私はそう思えた。

誰も否定することなく、でも怠惰だけで終わらせない、すごく自然な流れで希望をぼんやり残してくれたので、テーマにはそぐわないかもしれないがとっても暖かい気持ちにもなれた。
「寄り添わないで」という指示を受けてのフジの音楽も、すごくポジティブな意味で独立していて、ただのbgmにはならずに展開の1つとしてストーリー進行の役割を果たしていたように感じた。劇伴ともとれるし話のモチーフにも取れた。登場人物の何人かが、フジを口ずさむのが唐突すぎて危うく泣くところだった。それぞれの役毎に歌詞の解釈が違うことがしっかりと伝わってきた。でもそこには映画特有のドラマチックさではなく日常の自分たちにも重なるような平坦さがあって、語弊のある言い方をすればあえて映画にするような、主人公にするような特出すべき要素は何1つない映画だった。でもその当たり前さに心が抉られたし、フジの音楽が暮らしの中で聴くようないつもの温度感でスッと頭に入って来た。当たり前という取るに足らない題材を、些末なものに留めずに全力で表現できていてそこに1番感動してしまった。パンフレット読んで作り手の中でのフジの曲もすごく軸になっていて、とても拘って使っていたとわかったので2回目3回目とみれば曲の入り方とか、歌詞との繋がりとか新たに気づくこともあるんだろうな。
映画すごい詳しいわけじゃないけどこういう曲の使われ方はあんまり多くはないんじゃないかな。流れる曲の個々のオーラが尋常じゃなかった。
ここを退屈と思わなくなる前に見れて良かった。焦りとかもがきとか青春の終わりかけみたいな大学生だからこそ響くこともあるんだろうし、でもまたいい感じにヨレヨレの大人になったら再びみたいなとも思った。
ネタバレ回避するとこういう雑多なことしか言えないけど、めちゃいいので是非。

今流行りの宗教。

A.こんな夜中に大阪のお土産貪り食ってるのは何故ですか?


Q.バーのバイトで精神を使ったからです。


お土産ってもったいなくて結局賞味期限切れて「いや、それこそもったいないだろ」ってよく言われるんだけど。

(たとえ食べなくても期限切れまでお土産たちを守り抜いたって言うめちゃきもい愛情)

今めちゃくちゃ不本意な食われ方してますね彼ら

美味しいよ。美味しいからいいけど。


中学時代から他と違うって言う意図的に周囲と距離をとっていた(中学生あるある)し、根本的なとこで普通とズレてたのか今となっちゃわからんけど、10代の捻くれが治らず今全ての物事を留まらせていて泣いちゃうな。

いや、自分は自分が好きだし性格変えたいとかそんなんじゃないんだけどね。とりあえず誰か潤滑油としてアドバイスをおらにくれだ〜って割と明るめに悩みをぶちまける。


バイト行くたび彼氏は?男に興味ないの?なんで?とか言われるんだけどまじでなんなんだろうって思う。バイトのたびそれを考えすぎて今はもはや、

なんで興味ない自分に疑問を持たないんだろう?っていう疑問を持ってる。エンドレスぐるぐるだ。


強がりでも見えを張ってるわけでもなくて今の生活に満足してるんだけど、それは彼氏いるカラフルな生活を体験してないからって言うわけ、そんなん理由になるか?って思うけど、事実こちらには言い返す材料がないので悲しい。いつもここで敗北してむしゃくしゃ帰ってお菓子をくってる。


大人は大人だし子供は子供だけど、みんな知ったような顔してちっぽけな人生論語るの、全部誰かの宗教で、私だって私のほっそい人生の道端で拾ったしょぼくれた木の実をじっくり煮込んで食べて生きてるの、宗教信じてる暇なかったし、全部自分で信じ込んできたんだよ。だから、否定は良くないし宗教は押し付けじゃないんじゃないかな。


とか言ってたこのブログカラフルな生活後のブログと比較とかしないでね笑っちゃうね、いや、もはやしようか笑ってちゃうな。


ねろ、

昨日と違う今。

熱中症なった。割と元気だなとか思ってネットしてたら頭の痛さが地獄で泣いてる。

静かなのも嫌だからずっとテレビつけてたけど、もうそれは鬱陶しくてイライラする。

私とは離れた奴が作るメディアが気持ち悪いぐらい私の世間に纏わり付いてきて孤独にはならないけど、1人にもなれなくて結局テレビを消した。そしたら不意に地元のラジオが聞きたくなった。夕方ラジオは高校の放課後の1人っきりの部屋を思い出す。くだらんパチンコのラジオcmでセンチメンタルになれるなんて笑ってくれよ。


''ここは退屈迎えに来て''って最近読んだ小説で高校生同士が

「将来何になるの?」

「私は何者かになりたい」

「何者か?なにそれ笑」

って会話があったんだけど(ニュアンス)

すごく共感したとともに若干の絶望をした。何者かになりたいっていう感情が結局は何者にもなれない私たちのシンボルなのかもしれない。

自分を変えるなら環境を変えるのが一番な方法だと今でも思ってるし大学生になったことで、一人暮らしを始めたことで、知らず知らずに変化はしてた。でもそれは今だから言える話みたいなちゃちなものだし、変化の過程では当の本人は実感ないよね、何者かになれた!なんて思うひとなんていないんだよね。地元を捨てるほど、高校までの私を捨てるほど、私は私に不満はなかったし、なんなら恵まれているとさえ思っていたのかもしれない。地元を離れて、家族と離れてまでもなお、しきりに地元の景色を恋しく思い、地元のラジオを聴いている私はやっぱり何者にもなれてないんだな。矛盾だらけで、ないものねだりで生き続けてなきゃいけないんだな。

自分の意思で自分の人生を歩んでて、かっこいいなって尊敬してる友達が、ツイッターで、「人生一度じゃ足りないよー」って呟いててびっくりした。人間って儚くてギュッってしたくなるね。


今日、友達が悩んでて、その理由が先輩の悪ふざけがすぎてて傷ついたってことで。大学生にもなってそんなことで笑えるのかよガキだな、みたいな内容なの。純粋にとてつもなく引いたわ。無理、

20歳も超えてるのにそんなガキな遊びしてて、大学生だから許されるとか思ってるのかもしれないけどきもいその考えがキモい。その悪ふざけの先頭にいたのが、勝手に尊敬してた先輩だったからもう幻滅した。人間的に慕ってたのにな。一個上にしては大人だな、だけど童心もまだ忘れてない、そりゃ人気者タイプだわって。目の保養だったのに。もう目の毒。

まあ被害者話しか聞いてないからできればまだ中立な考えを持ちたいんだけどなぁ。そこまで私の心に余裕はない残念でした。

その子の相談の時、いい応答できてたのかな。相談受ける時、私は基本話をうんうんってきいて、そうだねそうだねっていうことしかできないの。そういう話の聞き方もあるし、それで気持ちが和らぐ時ってあると思うの。でも自分なりの正解な返答をちゃんと導ける人になりたいな。安心させられても勇気付けられてはいないんだよな。

毎日暑いし熱中症だし頭痛いし生きるのどちゃくそむずいね。


何者かになれなくても優しくなりたいな。